センチメンタルな人間賛歌

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

小さき者へ・生れ出づる悩み (新潮文庫)

なんていうか一口に情熱って言っても色々あって、例えば少年漫画的なただただ真っ直ぐな心で前に前に進んでいこうっていう正統派な情熱もあれば、何か苦しい環境にあって潰されそうになっているところを「なにおう負けるものか!」と奮起して頑張る反骨の情熱もあったり、絶望っていう絶望に打ちひしがれてガクブルしてたんだけど何かきっかけのようなものがあって自分を奮い立たせて立ち上がる克己の情熱もあったりして、なんていうかこの物語の場合は絶望感や虚無感を抱かせる状況が目の前にあってそれにセンチメンタルに沈んでるっちゃ沈んでるんだけどそこから立ち上がろうとしてる熱い心を抱いてるっていう意味では割と後者のそれに近いなって何か思ったわけで。

まあ早い話が人間賛歌のお話ですね。その人間賛歌的な方向に感情のベクトルが向かっていく辺りが割と典型的な白樺派って感じがします。割と自分自身が抑えつけられてしまう状況があって、それにセンチメンタルになったりするんだけど、そこで終わらないどころかそういうセンチメンタルがあるからこそ沸き上がってくるパッションから生まれてくる人間賛歌っていう感じの人間賛歌が当方一番大好きです。そういう意味ではとってもいいですねこれ。『小さき者へ』で「なんで俺自身の問題も解決してねーのに三人もガキ育てなきゃなんねーんだよ」と嘆いてみたり、母ちゃんに先立たれた子どもたちに「悲しみを背負うからこそ生まれる強さってあるんだぜ」と言ってみたり、『生れ出づる悩み』で今ここを生きてるって感じの漁師たちの間にあってめっちゃ居心地に悪さを感じてみたり、なんかもういっそ死んじゃえって思って崖っぷちに立ってみたら何かふとした拍子で死ぬのが怖くなってうひぃってなってその場で泣き崩れてみっともなく泣いてみたり。そんでその「ふとした拍子」ってのが汽船の汽笛っていう辺りがなんかもうたまらんですね。目の前の生活から逃げられないって感じを実によく表してると思うとですよ。

まあね、本当にもう「生きてる」って感じですよね。センチメンタルっておっしゃいますけどあなた、日常の中でこの程度のセンチメンタルすら感じないってあんたそれ生きてるって言えますかい? いやもうあれですよ、もう漁師連中みたいにもうそういうのに疑問を抱いてないっていうかなんかもう悟りを開いちゃってる人々はもうむしろ好意的に思っちゃうわけですし、有島さん自身もめっちゃ好意的に描いてるんですけれども、何となく日々をうまーい感じに生きててこういうおセンチなんてばっかじゃねーのって思っちゃう人たちねえ、そういう人たちってもうホントこういう人たちの「生の」感情なんて死んでも分かんねーんだろうなって思っちゃうわけですよ。悟りを開いて日々をメシウマにしちまうか、悟りなんて開けないけどそれでもそういうのから逃げずに終わりの見えない煩悶の中に懸命に考えるか。生きるってそういうことだって何か思うわけですぼかあ。

取りあえずこの色濃い白樺的人間賛歌の物語を目の前にして僕が思うことはあれですね、飯を食おう、身体を動かそう、そして考えようってことです。僕が思うに、人間が生きるってそういうことだと思うんですよ。そのいずれも欠けちまったら、瑞々しい感情なんて生まれないと思うのですよ。*1別に僕だって特別ポジティブじゃないっていうか、むしろ人並み外れてネガティブでむしろそういうネアカ主義的な世の中をぶっ殺してやりたいくらいに憎いと思ってるクズ野郎なわけですが、やっぱりそういう「前向き」なネガティブもやっぱりそういうところから生まれてくると思うんですよぼかあ。結局ネアカだろうがネクラだろうが人が向かいたいって思ってる方向って一つだと思うんです恐らくは。問題はその一つってのが到達点ってだけであって、そこに至るまでの道はそれはもう無数に枝分かれしてるはずなんですよ。それをあたかも「ここに至る道ってのは一つしかないんだぜ。それは他でもない俺たちが進んでる道なんだぜ、だからお前のその腐った道はただひたすらに間違ってるから悔い改めないといけないんだぜ」的なネアカの押し付けみたいな風潮に辟易としているわけです。「自分を好きにならないと前に進めない」とか余計なお世話だっつ―の。その強迫観念でますます自己嫌悪スパイラルに陥るタイプの人間がいるってことも分かりもしねーでなに知ったようなこと言ってんだすっとこどっこいが。

だからもう一回強調しておこう。

諸君、飯を食え、身体を動かせ、そして考えよう。

別に自分を好きになる必要なんてない。ただその代わり、そういう自分を抱えた上で、そういう自分を認めた上で、ただただ目の前の日常を生きよう。そうすりゃ誰だって「芸術家」くらいにはなれますよ。たとえ具体的な作品を残さずとも、生き方そのものが芸術的って人たちはいるわけです。たとえその人の生涯が、日本の片隅の海の漁師で終わったとしてもね。

後は荒海とか山々とかそういう自然描写も本当に見どころ満載です。映像資料なんてないだろうに、なんで伝聞だけでこんな迫真の荒海の漁師たちの描写ができるんだよなんなんだよこいつって感じです。なんかちょこちょこ漁師たちの描写からプロレタリアアートの匂いもするのも面白いところですよね。

*1:で、なんでそんな「飯」を強調するかって言うと、ただ単純に漁師たちが船の上で食ってた握り飯が美味そうだったからってだけ。こういう人たちって本人たちがそんなつもりがなくてもめっちゃご飯を美味そうに食うんですよね。「今日はあおまんまが甘えぞ」なんてセリフ見てるとホント微笑ましくなるんですよね、単純な好き嫌いの問題で。