平和的フェティシズムから醸成される悪意

人の手を渡った古い本には、中身だけではなく本そのものにも物語がある。人からの受け売りだが、正しい言葉だと思う。ただ一つ付け加えるなら、その「物語」が美しいものとは限らない。目を背けたくなるような醜い内容もあるかもしれない。この世に存在するあらゆるものと同じように。

――本文10pより

個人的な話をしよう。

僕の大学時代の講師にビブリオマニアがいた。僕のような単純な読書好きなどではなく、本という形態そのものが好きで好きでたまらないという筋金入りだ。

その先生は素晴らしい人物だった。至って平和的な性格で、話し方も知的で穏やかでしっかりしていて、聞くに耐えない退屈な授業ばかりだった司書課程の授業の中で明らかに異彩を放っていた。まさに本好きの本好きによる本好きのための授業だった。

震災が起こった年のある日の講義のことだ。その授業もやっぱり震災に関連した授業だった。その授業の中で、先生は大体こんな感じのことを言った。

「僕は震災等によって本が一切身近にない環境に置かれた時、本を読めない著しいイライラによって周りに迷惑をかける人間だ」

本を読めないという状況下において、周りに迷惑をかけずには居られないストレスを感じるという体質。

僕は授業外における先生の人となりを知っている訳ではない。しかし僕ははっきりと断言できる。これは間違いなく事実だ。僕のかつての友人に「活字が嫌いすぎてゲームの攻略本以外の本はマンガでさえ受け付けない」という人間がいたように、定期的に活字に触れていないと、あるいは本に囲まれた空間の中にいられないと生きがいを感じられず、焦燥感を覚える人間は確かに、いる。

ビブリオマニア。「マニア」どころか「オタク」という言葉さえすっかり認知された社会の中で、フェティッシュの対象が書物である人間は実に平和的で時に魅力的にさえ映る。学校の教室で一人静かに本を読む深窓の美少女というパブリックイメージさえあるくらいには、人畜無害の代表格だろう。「文学少女」シリーズの遠子先輩が冷酷に悪意をぶつける姿など、一体誰に想像出来るというのか?

しかし、果たしてそうなのか? 本当にそうなのか? ビブリオマニアビブリオマニアであるが故に誰かに悪意をぶつけることはないと、本当にそう言い切れるのか?

いい加減本題に入ろう。結論から言えば「ビブリア古書堂」は「悪意」の物語だ。しかも恐ろしく周到に脱臭が試みられた、にも関わらず痕跡だけははっきりと残した、そんな底意地の悪い物語だ。現に僕たちはこの物語を単純に可愛らしい栞子さんと戯れながら日常的な事件を解いていく穏健な物語として享受することが出来る。この物語で解き明かされる「真実」からはいずれも「臭い」がしない。だから表面的は穏やかな日常系に見える。そして僕から言わせればだからこそ「質が悪い」のだ。

たとえば「文学少女」シリーズはある「物語」になぞらえた悪意や不幸を背負った者たちが、天野遠子という「文学少女」の「妄想」、すなわち「読み手」の「再解釈」によって救済される物語であった。この物語の「敵」が背負う「悪意」の根源は深刻な「悲劇」であった。背負ったからには自分を、他人を、傷つけずにはいられない「悲劇」。しかし僕たちは「文学少女」シリーズから背筋が凍るような「悪意」を感受することはない。何故ならこれは癒されることが確約されている「悲劇」だからだ。その人物が背負う「物語」故に誰かに「悪意」をぶつける。シンプルな構造だ。生々しい臭いだってわざとらしいくらいにプンプンとする。そしてそれゆえに僕たちはこの物語に涙を流すことさえ可能なのだ。

しかし「ビブリア古書堂」は違う。これは決して表立って展開されることのない、癒やされることが何一つ確約されていない、喩えるなら書物に書かれた「事実」としての「悪意」なのだ。この物語はあくまで「古書」という「物体」の観点から解釈を行う。そこに「物語」のような「再解釈」の余地は存在しない。同じ文章でも、さながら新聞に書かれた文章のような、ただ物質的な「事実」しかないのだ。もしその「事実」に悪意がなかったのならば、あるいはその「事実」に悪意を感じなかったのならば、それはたまたま幸運だったにすぎない。善意も悪意も全てひっくるめて「脱臭」した上でただ「事実」のみを提示する。それを踏まえた上でその「事実」をどう思う(「解釈」ではない。念の為に)かは全て「読み手」次第。しかしこの物語の周到なところは、その「事実」の意味の理解をすっ飛ばし、その「事実」が栞子さんという可愛らしいキャラクターによってパズルのように鮮やかに解き明かされる手腕を安全圏で眺めることだけを楽しめるように作られているところだ。

遠子先輩は「物語」を愛し、栞子さんは「古書」を愛する。

一見大した意味を持たなそうな差異だが、実は決定的な事実を意味する。すなわち遠子先輩が「物語」の中に息づく「人間」を愛しているのに対し、栞子さんは「古書」という「物体」そのものを愛しているということである。現によくよく読み返してみると、書物の物語そのものが話の根幹をなしている「文学少女」に対し、「ビブリア古書堂」は書物の物語そのものについて触れられている・物語そのものが話の中心として展開されている場面は少ない。「第四話」にいたっては『晩年』の物語そのものが事件を動かした場面がほぼ皆無なのである*1。そういう意味で、栞子さんと大庭が「古書」という「物体」としての『晩年』をめぐって対立したという事実は大変興味深い意味をもつ。

「……どんなことをしてでも、大好きな本を手元に置きたい、気持ちを……分からないかもしれない、そう思ったんです……たかが本のこと、だから」

――本文294pより

つまり栞子さんは「古書」のためなら「人間」の敵に回ることもあり得るということだ。この言い方が過剰なら、たとえば栞子さんが五浦を手酷く裏切ったように「身近な人間」としてもいい。対して「物語」を愛する遠子先輩が「(身近な)人間」を敵に回すこと、少なくとも悪意をもって敵に回ることはほぼありえないといってもいいだろう。僕の知る限り、遠子先輩は決してこのような冷酷な方法で人間と向き合ったりはしなかった。

栞子さんは「第四話」で『晩年』を執拗に狙う大庭の目の前で『晩年』を焼いてみせる。それは「ビブリオマニア」にしか実行し得ない「悪意」であった。「この女だって僕と似たようなものだ」と主張した大庭の目の前で「わたしはあなたと違います」と宣言したにも関わらず「偽物」を焼いてみせるということ。そこに至るまでの周到さ、冷酷さ。賭けてもいいが、栞子さんは大庭に対して明確な「悪意」をもっていたはずだ。そしてそのような「悪意」が含まれていたからこそ五浦には「分からないかもしれない」と思ったのである。

エピローグで、栞子さんの裏切りに怒りを覚えた五浦に対して、栞子さんは彼女は本物の『晩年』を彼に手渡そうとする。裏を返せば、栞子さんは遠子先輩のように「物語」で五浦のことを惹きつけることが出来ないと判断したということだ。何故なら後ろめたいからだ。「物語」としての『晩年』ではなく「物体」としての『晩年』に惹かれている自分自身。だからこそ『晩年』という「物体」を通してでしか信頼を勝ち取れないと思ってしまう業の深さ。人ではなく、物で勝ち取ろうとする信頼。「この行為には五浦さんに信頼してもらいたいという「物語」がある」と言ってみても厳しい。何かしらの過ちを犯した人間が、その被害者に対して「僕は君に許してもらいたい(という物語を込めている)」と言って金や物を渡したところで、それが必ずしも贖罪に値するだろうか。逆にその行為は「お前に私の金・大事なものをやるから私のことを信頼しろ」という風にも解釈が出来てしまうのだ。相手本意ではなく、自分本意の贖罪。冷酷だが、そういう解釈も出来なくはないということだ。

しかし、ともかく、五浦は栞子さんのことを取りあえずは許した。少し辛めの解釈をするなら、いつでも『晩年』を差し出させる余地を残した上で判断を保留したという感じだろうか。こうして五浦は、そして彼の視線を通して物語を鑑賞する読者は、割とヌルい過程を経て栞子さんの「悪意」から「安全」でいられる場所に立つことに成功した。「ビブリオマニア」というフェティシズムと「頭が切れすぎる」能力によって醸成される可能性のある「悪意」で被害を受ける可能性が確実に減退したのだ。*2ここに至るまでの「穏やかな」描写と、それを額面通りに「日常系」として解釈してしまうこと。危険だ。とある人物の人間性を容姿の美醜だけで判断しようとするのと同じくらいに、危険だ。しかしその危険な状態にある自分自身を見て見ぬふりをしてそこにある物語の「快楽」に溺れることは、この上なく気持ちがいい。

僕たちは、この物語を読んだ僕たちは、栞子さんの平和的フェティシズムによって情勢される、醸成される可能性のある悪意に対して、もっと敏感になるべきだ。そしてせめて、それを自覚した上で「物語」を楽しむべきだ。今のこのご時世、フィクションに対して「これはフィクションだ! 嘘っぱちだ! 現実味がなければけしからん!」と騒ぎ立てるバカはいまい。しかし、「フィクション」を「フィクションでしかないんだから楽しければそれでいいじゃん」としか考えられない人は、上のバカと同じくらいにバカだ。

しかし、何度でも言うように、僕たちはこの物語に書かれた「悪意」をなかったことにすることが出来る。これは意図的にそういう風に書かれた物語だ。異性として魅力的な「ビブリオマニア」である栞子さんと戯れながら安全圏から謎を解き明かしていく楽しさを満喫する、そういう平和的な読み方が可能であり、そのように読むことが推奨さえされている。僕のようなおバカな深読み屋など少数派に決まっている。

しかし少数派の深読み屋の立場から一つ言わせてもらえるならば、確かにそこにある「悪意」をなかったことにする、あるいは感じることすら出来ない人々こそが、「物語」の中に息づく人間にあったはずの「悪意」を排斥し、その存在を否定したのである。とりわけ、昨今のライトノベルには「悪意」がない。それこそ「文学少女」シリーズに描かれている程度の「悪意」でさえ相対的に見れば「濃い」部類に入ってしまうくらいには。しかしその「悪意」でさえ、救済されることが確約されている「悪意」であった。そう、昨今のライトノベルにとって救済されることが確約されていない「不愉快」な「悪意」は「排斥」されて然るべきものなのだ。

戦略として、どうしようもない「悪意」を物語から排除することは決して間違ってはいない。ゼロ年代以降を席巻した「日常系」はその戦略によって勢力を伸ばしたといっても過言ではないだろう。「悪意」なんてそんな剣呑なものなど何一つない、そんなキャラにそんなセカイによる物語。これに全く魅力を感じない人間は逆に荒んだ心を持っている人間のように僕には見えてしまう。

繰り返すがこれは深読み屋の長い長い戯言だ。毒電波を受信した男のはた迷惑なわめきちらしと同レベルなのかもしれない。しかしあなた達が日常的になかったことにしている「悪意」は、とりわけ物語のメインストリームからはすっかり脱臭されてしまった「悪意」は確かに、あなたの「日常」に、その背後に存在している。ただ僕達は今、そういったものを「なかったこと」にすることが可能な社会に生きている。

それに気づくかどうかはあなたの感受性次第であり、

それに対してどう向き合うかはあなたの誠実さ次第である。

*1:せいぜいが「大庭葉蔵」くらいか。しかしこれを偽名として使った「犯人」も「洒落」以上の意味合いを込めているようには見えない。

*2:僕が思うに、わざわざ志田が栞子さんの能力の危険性を示唆する場面があることの意味をもっとよく考えた方がいい。もしこれが栞子さんを愛でるだけの作品として書かれたのならば、こんな「水を差す」ようなことをわざわざ物語中に記すだろうか?